2012-03-01 第180回国会 衆議院 予算委員会 第19号
香川県の篤志家の奨学金をいただいて、私の母校一橋大学の前身の東京商科大学に入学された。それで、苦労されて勉強された。 それで、主計官になって自分が奨学金をつくるようになったときに、給付型か貸与型かと迷ったときに、大平総理は、育英事業を国が行う以上、本来給費制にすべきだと考えた。給費制にするとか貸費制にするとかいう基本的な考えについてさえ、当時方針は決まっていなかったそうです。
香川県の篤志家の奨学金をいただいて、私の母校一橋大学の前身の東京商科大学に入学された。それで、苦労されて勉強された。 それで、主計官になって自分が奨学金をつくるようになったときに、給付型か貸与型かと迷ったときに、大平総理は、育英事業を国が行う以上、本来給費制にすべきだと考えた。給費制にするとか貸費制にするとかいう基本的な考えについてさえ、当時方針は決まっていなかったそうです。
私は、一九四〇年に東京商科大学の予科に入学しました。四二年に学部に進学して、田上穣治という憲法を担当していた教授のゼミナールで憲法学の勉強を始めました。学徒出陣で二年間学業は中断しましたけれども、復学して、一九四六年に卒業して、一橋大学の特別研究生として三年間憲法の勉強をしました。
長じて先生は、県立大田原中学校を経て、東京商科大学専門部を卒業されました。終戦は宇都宮の連隊で迎えられ、復員後は郷里の栃木県でリヤカーを引いて日用品の行商をされたのであります。先生は、各家庭を歩きながら、商売よりも天下国家を論じ、物価や生活を語り、これが人気を得て、次第に「インテリ行商人」と言われるようになりました。
高等商船を卒業しようと思ったら、みんな先輩が失業しちゃったもので、それで東京大学と東京商科大学両方受けたんだけれども、東大は断ってきたんです。願書受け付けないんです。技術学校の卒業生はそこを受けられない。東京商大というのはリベラルな学校であって、申込書を受け付けてくれたんです。
○政府委員(太田壽郎君) 今、先生のお話しの松橋さんというのは恐らく松橋忠光氏のことだろうと思いますが、この方は昭和二十二年三月に東京商科大学を一年で中退をされまして、翌年、二十三年四月、当時の国家地方警察本部の方で行っておりました警察幹部見習い生の採用試験に合格をして警察に入られた方であります。
大平さんは、一九一〇年三月、香川県三豊郡豊浜町の農家の次男として生をうけ、長じて県立三豊中学から高松高商を経て、苦学して東京商科大学に進み、一九三六年、卒業と同時に大蔵省に入省されました。 一九五二年、大平さんは、池田大蔵大臣の秘書官を最後に、池田さんを初め先輩、知友の勧めにより、政界に入る決意を固められたのであります。
このような現状を改善するために、一部の大学では普通教科科目にかえて職業科目を入試において選択できるようにするとか、推薦制を採用したりしているようでありますが、職業高校の卒業生のためにこのような入試制度をさらに拡充されますように、かつての東京商科大学や東京工業大学のように、そういうふうな大学をこしらえてもらうとか、特設コースの設置、拡充強化を図る考えについてどういうふうにお考えでしょうか、お伺いいたしたいわけであります
ただ、ここでは、公正取引委員会についてはそういう条件が満たされているので合憲と考えられるというような言い方をしておられますが、全部の著書を当たったわけではございませんけれども、田中二郎元東京大学教授、元最高裁判事でございますが、これも内閣に委員の任命権と予算に関する権限があれば違憲とは言えないというようなことを言っておられますし、田上穣治、これは昔の東京商科大学の名誉教授でございますが、委員の任命権
一昨年の三月、一橋大学をよしまして、これは定年は、あそこは六十三才でございますけれども、大学の教員として大学教員が当然やらねばならない教育や研究というものが、与えられた大学教員というその条件の中では、とうてい満たすことができないということを考えた結果、定年以前にやめさしてもらったのでございまして、つまり特に東京商科大学と一橋大学との比較ということの問題でございますけれども、おそらくはまじめに大学で学生
第二点は、先生は大学教授をなされておられるわけですが、特定いたしまして、東京商科大学の卒業生と現在の一橋大学の卒業生の、それぞれ長短があられるでしょうが、どういうように先生は把握されておられるか。
○政府委員(森山欽司君) お手元に履歴書が参っているかと思いますが、現職は電波監理審議会委員のほか、憲法調査会委員、一橋大学教授兼一橋大学東京商科大学教授、学術奨励審議会委員、町名地番制度審議会委員、以上の通りでございます。その意味では、多い方でもないかと思います。
ただ御承知かと思いますが、たとえば昔の東京商科大学であります。これは一ツ橋にありましたものを国立へ移転をしたという実例もございますし、また目黒にありました電気通信大学を府中の方へ持っていったというような実際の例もございます。またそういった大都市のまん中にあるものを、できるだけ郊外地域へ持っていくということについては、実現可能な場合には将来も考えて参りたいと思っておるわけであります。
本日申し上げますることは、ただ私が従来憲法学を大学において講義しておる、十七年間一橋大学、東京商科大学において講義しておりまするし、行政法学においては二十三年間、昭和十年以来今日の一橋大学において講義を担当しておりまするので、憲法学、行政法学の専攻の立場から申し上げることでございます。
また、田上君は、昭和五年三月、東京帝国大学卒業後、同大学の助手となり、以来、東京商科大学の助手、助教授及び教授となり、同三十年五月、電波監理審議会委員に任命され、今回、同審議会委員に再任され、また、現に憲法調査会及び選挙制度調査会の各委員の職にあるものであります。
この方は、昭和五年に東京商科大学を卒業されまして、昭和十三年に大蔵省銀行局の方へ入っております。その後昭和二十八年に神奈川相互銀行に就職、常務として就任し、二十九年六月に第一相互銀行に入りております。その年の十月に常務に就任しておりますが、その後、今年に入りましてから、ちょっと期日ははっきりしませんが、五、六月ごろじゃなかったかと思いますが、退職をいたしております。
中山君は、大学卒業後、東京商科大学の予科教授、助教授、教授を経て、昭和二十四年五月、一橋大学長となりましたが、客年十月、一橋大学教授となり、本年九月、同委員会委員に任命され、現在に至っているものでありまして、現に、日本ユネスコ国内委員会委員、中央労働委員会会長、統計審議会委員等の職にもあるものであります。
お手元の履歴書で御承知のように、中村君は東京商科大学卒業後、地方事務官、地方警視等を経て、島根、岐阜、埼玉各県経済部長、及び山梨、三重各県の内政部長、総務部長等を歴任し、昭和二十二年七月三重県副知事となり、翌二十三年十二月退職、ついで翌二十四年一月及び同じく二十八年四月の再度にわたり衆議院議員に当選したものであります。
○牧野証人 大正四年の九月に東京で生れまして、昭和十五年の三月に東京商科大学を卒業いたしまして、同年の四月に大蔵省へ入りました。預金部資金局と銀行局へ勤務しておりました。昭和十六年の三月に陸軍にとられまして、南支那派遣軍に入隊いたしまして、大東亜戦争が終るまで南支那におりまして、終戦後一時捕虜になりまして、跡始末をいたしまして、昭和二十一年の五月に久里浜で復員いたしました。
先ごろヨーロッパを旅行して後、アジア太平洋地域平和会議に出席し、日本代表の副団長として活躍された、東京商科大学の南博教授は、西欧では、常識を持つ普通人は、今日もはや、ソ連の侵略など、まじめに信用しなくなつた、そのように帰朝談で言つておるのであります。
○参考人(井藤半弥君) 一橋大学東京商科大学教授井藤半弥でございます。御命令によりまして今度の国会で御審議中の昭和二十八年度分所得税の臨時特例等に関する法律案並びに一般国税に関する問題点について意見を述べさせて頂きたいと思います。 具体問題に入ります前に、これはいつもお招きにあずかりますたびに同じようなことを申すようでございますが、日本の税制の背景になつておる一般的な問題を申上げます。
それかう東京商科大学の教授をやりまして、昭和十一年にやめまして、弁護士を三年ばかりやつて、昭和十五年から東亜同文書院に行くようになりまして、初めは副院長、終戦当時は院長をしておりました。それから帰りまして、東亜同文書院の身がわりになるような学校の愛知大学の創立をやりました。その際は私は理事でありました。それから昭和二十二年八月に最高裁判所事務総長を奉職、それから昭和二十五年の六月まで在職しました。